教えに生きる

浄土真宗はお念仏を中心とした生活を第一にする宗旨です

多くの宗教では「私が信じ」「私が祈る」という行為を大切にしますが、浄土真宗はそれと真逆の思考を持ちます。なぜならその「私」こそ最も信用できず、条件さえ整えば何をしでかすかわからない存在であると受けとめるからです。よって阿弥陀様によって信心をいただき、阿弥陀様によって祈られている私の日常を憶い、手を合わせお念仏を申すことを教えといたします。

思えばこの数年のコロナ禍をとおして、それまでは、やれオリンピックだ、技術大国だと浮かれていた、日本人のありのままの姿が浮き彫りにされました。それは自粛を他人に押し付け、警察まがいの監視行為を繰り返し、そのくせ自分さえよければとマスクや生活品を買い漁る、SNSなどでは匿名をいいことに、安っぽい正義感を振りかざして他者を罵倒したり、いい加減な陰謀論に安易に振り回される。一方で、そうした行動をとっている自分の醜さには気づきもしない、そんな姿です。しかし、これこそが私たちの正体だったのではないでしょうか。コロナ前には体よく包みおおせていた、日本人のみならず、人間のもろさ・哀れさです。

そうしたコロナの有無によらず、昔から、いやおそらくは未来永劫、日常生活に右往左往する私たちを、阿弥陀様は静かにご覧になります。私たちは自らが信じ・祈るという、本来純粋であるはずの行為の裏にあるものを忘れています。それはどうしても張り付いて取れない「私が」という利己心・虚栄心です。そのことにに気づき、常に阿弥陀様の教えを通して、自らを謙虚に学ばなければならなかったのです。うっかりするとすぐ「信じてやった」「祈ってやった」「お前のことを思って言ってやった」とすぐに自分の手柄にしようとするのは、私たち人間の通常運転状態であるからです。

したがって浄土真宗では「聴聞(ちょうもん)」を大切にします。

聴聞とは「ことあるごとにお寺で仏法を聞き、教えを通して自らの生活を見直す行為」を言います。祈るだけではなく耳を傾け、口には念仏を称えることが尊いのです。なぜなら黙って手を合わせているだけでは何を内心で考えているかすらわからないのが人間だからです。

従って、浄土真宗では1=お念仏、2=聴聞、そして3=朝夕のお勤めを、生活の3本柱といたします。そしてこの生活こそ、いつの時代も混迷している中、生き抜くチカラを阿弥陀様からいただく念仏者の生活であります。